文化・写真論

日本のグラビアと未成年の表現者――表現・主体性・文化的文脈

若い表現者が参加する日本のグラビアを、作品の内容、本人の主体性、そして日本固有の写真文化から考える。

未成年者が参加する日本のグラビアをめぐる議論では、しばしば最も論争的な事例ばかりが取り上げられる。そのような作品に批判すべき点がある場合もあるが、それだけによって若い表現者が参加するあらゆる写真を定義することはできない。

日本におけるグラビアは、雑誌、写真集、宣伝媒体、デジタル出版などに見られる幅広い写真表現である。ポートレート、ファッション、季節を意識した写真、アイドルのプロモーションから、より官能的な表現まで、その内容は多様である。したがって、グラビアは単一の目的や倫理的性格をもつ一つのジャンルではない。

ジュニアアイドルという言葉にも曖昧さがある。本稿では、歌手、モデル、俳優、タレント、被写体などとして活動する未成年のアイドルや表現者を広い意味で指す。ただし、未成年のアイドルがすべてグラビアに参加するわけではなく、グラビアに登場する若いモデルがすべてアイドルであるわけでもない。

ポートレート、ファッション写真、アイドルのプロモーション、性的に示唆的な写真、そして違法な搾取は、同一のものとして扱われるべきではない。

未成年者の写真は、それだけで性的なものではない

若い人々は、映画、演劇、音楽、ダンス、ファッション、広告、スポーツ、ポートレート写真など、さまざまな表現活動に正当に参加している。若いことや容姿が魅力的であること、あるいは肌の見える衣装を着ていることだけによって、その姿が本質的に性的なものになるわけではない。

たとえば水着は、海辺、プール、スポーツ、夏という場面では一般的な服装である。その意味は、水着そのものだけではなく、ポーズ、表情、構図、カメラアングル、言葉、作品の雰囲気、宣伝上の見せ方によって形づくられる。

水着は自動的に性的な衣装となるわけではない。一方で、撮影や宣伝の方法によって性的に強調される場合はある。重要なのは、単に何を着ているかではなく、その人物がどのように表現されているかである。

写真は、活力、自信、遊び心、上品さ、内省的な雰囲気、ファッション、季節感、あるいは表現者の成長の一時期を伝えることができる。一部の鑑賞者が性的な読み方をする可能性だけによって、作品全体の意味が決められるべきではない。

芸術的・文化的表現としてのグラビア

日本のグラビアは、雑誌出版、ポートレート写真、ファッション、芸能文化、アイドル文化の中で、独自の美的表現を発展させてきた。

写真は、自然光、色彩、場所、衣装、表情、構図、空気感などによって評価されることがある。人物の外見はポートレートやファッション写真の自然な要素だが、それによって性が常に作品の中心的な主題になるわけではない。

アイドル、俳優、モデルにとって、写真活動はより広い表現活動の一部でもある。歌、ダンス、演技、テレビ出演、ファッションモデル、写真作品への参加は、一人の表現者が築く公的な人物像の相互に関連した側面となり得る。

写真集は、その人物のキャリアにおける一時期を記録することができる。夏の特集は季節や場所を表現し、ポートレートは、ステージ上とは異なる思慮深さや個性を見せることもある。こうした作品には、個人的、文化的、芸術的な価値が存在し得る。

あらゆる写真を成人の鑑賞者が抱くと想定される欲望だけに還元すると、作品そのものと、表現者が意図した自己表現の両方が見えなくなる。また、若い人物を、おとな同士の議論に用いられる受動的な象徴としてのみ扱うことも、別の形の客体化になり得る。

「芸術」や「自己表現」という言葉が搾取の言い訳として使われてはならない。しかし、芸術的、個人的、文化的な意味が実際に存在する可能性も認め、個々の作品を具体的に見る必要がある。

表現の主体としての若い出演者

若いアイドル、俳優、モデルを、おとなに管理されるだけの受動的な存在として理解すべきではない。十代の表現者であっても、高い職業意識を示し、自分の仕事の慣習を理解し、衣装、写真、演技、公的な見せ方について明確な好みをもつことができる。

モデル活動や撮影そのものを心から楽しむ人もいる。自分の仕事に誇りをもち、表情、スタイリング、場所、ポーズ、伝えたい雰囲気の選択に積極的に関わることもある。

年齢は重要だが、それによって本人の意見が無意味になるわけではない。子どもの権利条約は、子どもが自分に関係する事柄について意見を表明し、その意見が年齢と成熟度に応じて考慮される権利を認めている。また、芸術を含む形で表現する自由も認めている。 資料:日本ユニセフ協会

すべての未成年者を完全に受動的な存在として扱うことは、保護しようとしている本人の声を無視することになり得る。また、若い表現者には本当の意欲や美的判断、自分の活動への理解が存在しないという見方にもつながる。

もちろん、その主体性は、おとなと同じ法的独立性を意味しない。家族、所属事務所、出版社、写真家などのおとなには、より大きな責任がある。したがって重要なのは、無制限の自由ではなく、適切な保護によって支えられた主体性である。

日本の文化的文脈

グラビアは、日本の雑誌文化、写真文化、芸能文化、ファッション、アイドル文化の中で理解される必要がある。その慣習は、欧米のファッション、セレブリティ文化、成人向けメディアをめぐる分類と必ずしも一致しない。

日本の鑑賞者は、写真をアイドルの個性、キャリア、衣装、季節的な設定、ファンとの関係などを通して見ることがある。一方、海外の議論では、出演者の年齢、衣装、あるいは成人が性的に解釈する可能性だけが強調される場合がある。

そのような見方では、作品がもつ文化的・美的な表現が見落とされることがある。すべての若い出演者の写真を成人の性と結びつけて解釈するなら、批判する側が、批判の対象としている性的な視線をかえって再生産してしまう場合さえある。

文化的文脈を考慮することは、作品を批判の対象外にすることではない。また、日本で制作されたというだけで、すべての作品が適切になるわけでもない。しかし、異なるメディア文化から持ち込まれた先入観だけではなく、作品が実際に何を表し、どのように制作され、本人がどのように参加したかを見る必要がある。

鑑賞者の行動と作品そのものも区別されるべきである。一部の人物による不適切なコメント、転載、性的な解釈が、写真家や出演者の意図、あるいは一般的な鑑賞者が作品に見いだす意味をそのまま示すわけではない。

法律上・倫理上の区別

日本の児童買春・児童ポルノ禁止法では、十八歳未満の者を「児童」と定義している。しかし、十八歳未満の人物を写したすべての写真が児童ポルノに該当するわけではない。同法の定義は、性的行為の描写や、性的な部位が殊更に露出または強調され、性欲を興奮させ、または刺激する表現などを対象としている。また、児童を性的搾取や性的虐待から保護するという目的を維持しながら、文化芸術活動などの権利と自由を不当に侵害してはならないとも定めている。 法令資料

法律に違反していないことは、作品の芸術的・倫理的価値を自動的に証明するものではない。しかし、論争があることだけで、搾取があったと証明されるわけでもない。

適切な制作では、出演者に企画内容や発表方法について理解できる説明がなされるべきである。本人が衣装、ポーズ、アイデアを断り、屈辱や不利益を受けずに参加を中止できることも重要である。家族、事務所、出版社、制作スタッフには、年齢に適した表現と労働環境を整える責任がある。

これらの原則は、グラビアを正当な写真表現として認めることと矛盾しない。写真そのものを疑わしいものとみなすのではなく、表現者を尊重するための原則である。

作品そのものを見る

最も慎重な検討が必要なのは、若さ、困惑、無力さ、傷つきやすさなどが、性的な消費のために意図的に宣伝される場合である。そのような表現は、出演者が未成年であるという理由だけで、通常のポートレート、ファッション写真、水着写真、アイドルのプロモーションと同一視されるべきではない。

作品を考える際には、写真が何を表現しようとしているのか、本人がどのように描かれているのかを見る必要がある。個性や一人の人物としての存在感が表れているのか、それとも特定の身体部分だけに還元されているのか。本人は企画に自信をもって参加しているように見えるか。作品はどのような題名、説明、宣伝、媒体によって鑑賞者に提示されているか。

このような問いは、広いカテゴリーに含まれるすべての作品を倫理的に同一視するよりも有益である。

結論

若い表現者が参加する日本のグラビアを、一つの前提だけで語るべきではない。

若い人々にも、現実の主体性、職業への意欲、美的な好み、写真や芸能活動に参加したいという本人の意思が存在し得る。グラビアは、性を主な目的とすることなく、個性、ファッション、空気感、季節、芸術的表現、キャリアの一時期などを伝えることができる。

日本のグラビアは、独自の文化的・写真表現の伝統にも属している。その文脈を理解することは、あらゆる作品を無批判に受け入れることではない。しかし、海外からの固定観念や論争的な呼称だけではなく、作品をより丁寧に見ることを求めるものである。

おとなには、適切な環境を整え、若い表現者の信頼や意欲が利用されないようにする責任がある。その責任は、本人の声を消すのではなく、本人の主体性を支えるものでなければならない。

最も妥当な原則は明確である。若い表現者の主体性を否定することなく保護し、写真をカテゴリー、衣装、先入観だけで判断するのではなく、作品が実際に何を表しているかによって考えることである。